書評
『社会学への招待』(筑摩書房)
本書にもどって社会学的パースペクティヴの例をみよう。たとえば、恋愛結婚(愛しあっての結婚)。愛はいつでもどこでも燃え上がり、抗うことができない感情だとされている。しかし、そういう公式的見解というファサードを取り去って、実際の結婚を調べてみれば、恋愛結婚は階級や所得、学歴、人種的・宗教的背景などの回路の中でおこなわれている。結婚式で司会者が熱烈な恋愛結婚という紹介をしても、大概のところは階級や学歴の似たもの同士なのである。「キューピッドの矢が一瞬のうちに放つ矢は、(中略)非常にはっきりとした回路の中を飛んでいく」。
そもそも好きになったら結婚したいとおもってしまうこと自体、われわれがいかに社会に刻印されている存在であるかを示している。制度(結婚)がわれわれの感情に組み込まれてしまっているからである。
通常、社会と個人は拘束(社会)と自由(個人)で二項対立化させられる。そして、社会は、罰則や賞賛などのサンクション(制裁)によって個人を社会秩序にむかわせるとされる。これが社会統制のメカニズムである。社会はわれわれの外にあり、われわれを幽閉するが、結婚という制度がわれわれの感情のなかに食い込んでいるようにわが内にも社会はある。良心とは社会の内面化なのである。われわれは社会の囚われの身であると同時に、われわれがいつも社会をつくっている。その意味でまさしく、社会は、わたしたちの皮膚の表面で止まっているというわけではないのである。
社会学は「ものごとはみかけどおりではない」とするから、現実の暴露、体裁の剥ぎ取り、相対化をなす。であるからして、社会学を学んだ者は、保守的運動にとっても革命運動にとってもやっかいな輩である。「前者(保守的運動―引用者)の場合には現状維持のイデオロギーをすぐ真にうけて信じこむということができないからであり、後者(革命運動―引用者)の場合には革命家たちがつねに自分たちのエネルギー源としているユートピア的神話に懐疑的であるからである」。
ここで、著者が「ほんのわずか」とか「かもしれない」といっているところがいかにも社会学者らしい。絶対と断定ほど社会学から遠いものはないからである。
本書のいう社会学的視点(現実の暴露・体裁の剥ぎ取り・相対化)は近代社会に生きる人々の意識でもある。しかし、そうした意識はそのままでは、単なる冷笑家の道になりかねない。その意味では毒薬である。しかし、著者は、社会学を学ぶことによってそういう「原」社会学意識を洗練させることが毒薬をして気つけ薬に転化させることになるのだという。社会学には目もくらむ効用はないかもしれないが、ちょっとした苦痛がやわらげられ、人生をすこしばかり明るくすることができる(とおもいたい)。
【この書評が収録されている書籍】
そもそも好きになったら結婚したいとおもってしまうこと自体、われわれがいかに社会に刻印されている存在であるかを示している。制度(結婚)がわれわれの感情に組み込まれてしまっているからである。
通常、社会と個人は拘束(社会)と自由(個人)で二項対立化させられる。そして、社会は、罰則や賞賛などのサンクション(制裁)によって個人を社会秩序にむかわせるとされる。これが社会統制のメカニズムである。社会はわれわれの外にあり、われわれを幽閉するが、結婚という制度がわれわれの感情のなかに食い込んでいるようにわが内にも社会はある。良心とは社会の内面化なのである。われわれは社会の囚われの身であると同時に、われわれがいつも社会をつくっている。その意味でまさしく、社会は、わたしたちの皮膚の表面で止まっているというわけではないのである。
社会学は「ものごとはみかけどおりではない」とするから、現実の暴露、体裁の剥ぎ取り、相対化をなす。であるからして、社会学を学んだ者は、保守的運動にとっても革命運動にとってもやっかいな輩である。「前者(保守的運動―引用者)の場合には現状維持のイデオロギーをすぐ真にうけて信じこむということができないからであり、後者(革命運動―引用者)の場合には革命家たちがつねに自分たちのエネルギー源としているユートピア的神話に懐疑的であるからである」。
人生本来戯れと知りながら
というと、社会学は冷笑家をつくるだけの陰鬱な学問という不満と危惧がでるだろう。社会学毒薬論となる。しかし、著者は社会学的理解は、人間の営みを「社会的カーニバルと見る喜劇の感覚」であり、そうした感覚が生きるうえでの気つけ薬になることの効用を強調する。福沢諭吉の「人生本来戯(たわむ)れと知りながら、この一場の戯れを戯れとしないでまじめに勤めていくことが大切である」(『福翁百話』)とも通底する境地である。バーガーはこういうのである。(社会学を学ぶことによってー引用者)ほんのわずかかもしれないが、偏見から脱却し、自分自身の行なう社会的関与に、より注意深くなり、さらには他人の社会的関与に対して、より懐疑的になることだろう。そして、もしかしたら、社会を旅するうちに他人への共感がほんのわずかでも深まるかもしれない。
ここで、著者が「ほんのわずか」とか「かもしれない」といっているところがいかにも社会学者らしい。絶対と断定ほど社会学から遠いものはないからである。
本書のいう社会学的視点(現実の暴露・体裁の剥ぎ取り・相対化)は近代社会に生きる人々の意識でもある。しかし、そうした意識はそのままでは、単なる冷笑家の道になりかねない。その意味では毒薬である。しかし、著者は、社会学を学ぶことによってそういう「原」社会学意識を洗練させることが毒薬をして気つけ薬に転化させることになるのだという。社会学には目もくらむ効用はないかもしれないが、ちょっとした苦痛がやわらげられ、人生をすこしばかり明るくすることができる(とおもいたい)。
【この書評が収録されている書籍】