解説

『マイ・バック・ページ―ある60年代の物語』(河出書房新社)

  • 2017/04/23
マイ・バック・ページ―ある60年代の物語 / 川本 三郎
マイ・バック・ページ―ある60年代の物語
  • 著者:川本 三郎
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(223ページ)
  • 発売日:1993-11-00
  • ISBN-10:4309403913
  • ISBN-13:978-4309403915
内容紹介:
全共闘、ベトナム戦争、CCR、そして連合赤軍事件…。「政治の季節」のただなかで、悩み、翻弄されてゆく、ひとりの若きジャーナリスト。伝説の回想録待望の復刊。

もし、シュペングラーのいうように、文明や社会にも、人間と同じように、幼年期、青年期、壮年期、老年期という区分が存在しているとするならば、一九六〇年代後半から一九七〇年代前半にかけての日本の社会は、まちがいなく、青春の真っ盛りにあった。もちろん、あの時代がちょうど自分の青春と重なっていたから、そんな印象を抱くだけだという意見もあるだろう。だが、それならば、あの時代に感じた「今日は昨日の続きではなく、明日は今日の続きではない」という、青春期にだけあらわれる非連続の感覚を、現在の若者たちは所有しているのだろうか。

「一九六九年四月、私は『週刊朝日』の記者になった。大学を卒業し、一年間、就職浪人をして記者になった。まだ二十五歳だった。可能性は無限にあり、なんでも出来るんだという若い気負いがあった。時代もまだ若く、激しかった」

これを読んで、真っ先に思い浮かべたのは、個人と社会の「青春」のこうした重なりだった。昨日まではまったくの絵空事のように思えた全学無期限ストが今日になると突然現実になってしまう。あるいは昨日まで勉強派だった友人が今日は党派の活動家に変身している。あの頃、一年後の自分、一年後の日本を予測することなどとうてい不可能のように思われた、一九六九年に七〇年安保のことを語るのは、まるで百年後の社会を想像するような非現実的なことのように感じられた。当時、未来学などといういかがわしい学問がはやっていたが、あれはあれで、大人たちもまた時代の予測不可能性を感じていたことの証拠だろう。

いずれにしろ、社会も個人もほんの一歩先が見えなかった。だが、お先真っ暗というのでは決してなく、むしろ「お先真っ白」とでもいうか、焦点の定まらぬ白っぽい光がどこか遠くのほうで輝いているような感覚だった。その光が、党派の人間が説くような「革命」などではないのはわかっていた。「もし革命なんか起こったら、俺たちゃ、真っ先に粛清されちゃうな」とうそぶく程度のシニカルさは持ち合わせていたからだ。だが、さりとて、そんな「光」なんてものはみんな幻影だと片付けてしまうほどには現実的になれなかった。

当時、川本さんは『週刊朝日』の記者で、私はバリケードの中にいる学生だったが、おそらくこうした時代の感覚は共有していたのではないかと思う。たとえば、「私の8・15」というタイトルで募集した戦争体験の入賞者にインタビューした文章で何度か繰り返される「六九年の夏の終わりの暑い太陽」は、たぶん、私が感じていた「光」と同じ種類のものだったのだろう。

だが、いまにして思えば、この「光」は、やはり「あまりにも短かった我らが夏の眩ゆい光」でしかなかったのだ。一九六九年の九月に日比谷公園で開かれた全国全共闘結成大会を頂点にして、時代は徐々に「冷たい暗闘」の中へ沈んでいく、圧倒的な歓呼に迎えられて野音にあらわれた東大全共闘議長の山本義隆をアジトから運んだのが川本さんだったとは驚きだが、実はこのとき、会場で山本義隆以上に注目をあつめていたものがあった。それは、つい最近結成されたばかりの赤軍派だった。マジックで「赤軍派」と書いた赤ヘルをかぶった活動家が『赤軍発刊準備号』を売って歩いていたのを昨日のように思い出すが、この時点では、いままでとまったく違う、とんでもない党派が出現したなと感じただけだった。よもや二年半後に、あの「連合赤軍事件」が起こるとはだれが予想しえただろうか。

それでも、まだしばらくは、大気の中に残光がきらめいていた。だが、一九六九年十一月の佐藤訪米阻止闘争は、すでに完全な「群衆動員」の闘争になっていた。「センス・オブ・ギルティ」を読むとあの日の徒労感と雨の冷たさが蘇ってくる。あのときには、党派よりも、私服刑事の動員がものすごく、突如回りを取り囲まれて逮捕された友人も多かった。



明けて一九七〇年、何かが起こると言われていた、あの七〇年安保の年になった。しかし、この年にはすでに大学闘争は完全に下火になり、反乱はむしろ高校に飛火していた。駒場の喫茶店に行くと、大学生のかわりに、高校生が我がもの顔で座席を占領していた。女子高校生も中にかなりまじっていた。「取材拒否」に出てくるM君のような長髪の高校生が女子高校生の肩を抱いているのを見るのは眩しかった。まったく価値観のちがう世代が出てきたという驚きと同時に、なんだか自分が妙に年寄りになったような疲労感を覚えた。いまから思うと変なのだが、一九六八年に大学に入学してから、たったの二年間で、二十年分ぐらいまとめて年を取って一挙に中年になってしまったような感覚だった。おそらく、高校生たちも、M君や彼女のように、遅れを取り戻そうとするかのように、ものすごいスピードで人生を生きていたのだろう、不思議なことは、眩ゆいばかりの青春を生きていたあの高校生たちの映像は永遠にストップ・モーションがかかっていて、彼らがいまでは自分と同じ中年のオジサン、オバサンになっているとはどうしても思えないのだ。

大学は再開されていたが、授業に出る習慣をとうになくしていた私は、映画館の闇の中に埋もれていた。映画館では休憩時間に照明がパッとつくのがなによりもいやだった。この休憩時間にさんざん演歌を聞かされたおかげで「現代歌情」に名前の出てくる「傷だらけの人生」「ざんげの値打もない」「新宿ブルース」「長崎は今日も雨だった」などは、いまでもちゃんと歌える。時代が暗くなると、いい演歌が多くなるのだろうか。

文芸坐のオールナイトには、ほとんど毎週出かけた。新宿のピットインで、やがて鈴木いづみと結婚することになる阿部薫のソロを聞いて、背筋がゾクゾクするような感動を覚えたのはいつのことだっただろうか。鈴木いづみが、『日刊スポーツ』かなにかのインタビューで「うちの亭主が天地真理のファンなのでいやになっちゃう。私が男だったら絶対、浅川マキに惚れるな」と語っていたのはもっとあとのことだろう。ジャズ喫茶には高校生のときほど頻繁には行かなくなったが、終電を逃せばそこしか行き場所はなかった、そして、朝になったとき、一番感動的な光景を見せてくれるのは、池袋でも渋谷でもなく、いつもきまって新宿だった。「町はときどき美しい」の次の一節はなんといっても感動的だ。「深夜営業のジャズ喫茶にずっとねばって、フーテン仲間たちと早朝の新宿の町に繰り出していく。いつもは騒々しい新宿の町が、朝の一瞬だけはとびきり美しい姿を見せてくれる。フランスの詩人の『世界はときどき美しい』という言葉がそんなとき急に生き生きとよみがえったりした」

新宿もあれからずいぶん変わった。まず、川本さんがコルトレーンの『至上の愛』を「埋葬」した西口の淀橋浄水場と、吉永小百合や和泉雅子の通ったという精華学園がなくなって、西口広場ができた。この西口広場では、一九六九年一月十九日の夕方にカンパに駆り出されて、激昂した通行人に袋だたきにされそうになったこともある。

柱があって見にくかったシネマ新宿も、痴漢の巣だった日活名画座もなくなった。当時は来日ジャズマンの公演は、産経ホールか新宿厚生年金ホールと決まっていたが、一九六六年にコルトレーンがきたときには、厚生年金で『アフロ・ブルー』を聞いて心底感動したものだ。

マイ・バック・ページ―ある60年代の物語 / 川本 三郎
マイ・バック・ページ―ある60年代の物語
  • 著者:川本 三郎
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(223ページ)
  • 発売日:1993-11-00
  • ISBN-10:4309403913
  • ISBN-13:978-4309403915
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