書評

『風流(ふりゅう)の図像誌(イコノグラフィー)』(三省堂)

  • 2018/03/03
風流の図像誌 / 郡司 正勝
風流の図像誌
  • 著者:郡司 正勝
  • 出版社:三省堂
  • 装丁:ハードカバー(255ページ)
  • ISBN-10:438534938X
  • ISBN-13:978-4385349381
『風流の図像誌』(三省堂、一九八七)は、「山」をめぐる日本人の想像力の論理を明らかにしようとした、まことに独創的な書物である。

「山」といえば、西洋には西洋の、東洋には東洋の、その表象の歴史がある。西洋の美学史になじんだ者なら、ペトラルカによる南アルプスのヴァントゥ山登山(一三三六)に象徴される「風景美の発見」(ブルクハルト)に兆し、そして十八世紀にいたってアルプス山岳絵画の登場に端的に顕現した美意識の変化というものを、崇高論の生成との関わりにおいて直ちに想起することができよう。M・H・ニコルソンの『暗い山と栄光の山』(一九五九、小黒和子訳、国書刊行会、一九八九)は、しかし、大地の「瘤、疣(いぼ)、火ぶくれ、膿瘍」にほかならなかった山が、十八世紀以降感動をもって仰がれるようになった経緯を、従来の美学史的記述よりはるかに広大かつ精緻な視野のもとに明らかにしてくれる。山は、多様性に満ちた無限の世界において神の栄光をあらわす自然の壮大な表象へと変容する。

東洋には、いうまでもなく、山水画の歴史がある。「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」(『論語』)との孔子の言葉もあるように、山水は古来人間の徳性に相和する霊的存在とみなされ、それゆえ特権的な視覚的表象の対象であり続けてきた。宋炳の『画山水序』(五世紀)は、中国山水画論の精髄を伝えてくれるだろう。ちなみに、マイケル・サリヴァン『中国山水画の誕生』(中野美代子・杉野目康子訳、青土社、一九九五)は、おびただしい資料にもとづきながら、しかも具体的な視覚的表現のありように即して、中国山水画の生成を論理的に解明しようとした基本的文献である。日本はといえば、こうした画論の系譜とは別に、明治以降、北村透谷のエッセー『富嶽の詩神を思ふ』(明治二十六年)や志賀重昂の『日本風景論』(明治二十七年)あたりから、明らかに西洋山岳論の影響のもとに山の思想が展開されていくことになる。三田博雄『山の思想史』(岩波新書、一九七三)や島本恵世『山岳文学序説』(みすず書房、一九八六)は、そのあたりの経緯を仔細に追った貴重な研究である。

さて、『風流の図像誌』が独創的であるとすれば、それは、「山」を以上のような文脈とはまったく無縁なかたちで扱いながら、そこに驚くべき地平を開いているからである、著者は、各種の絵巻や錦絵、あるいは各地の祭礼、民俗、芸能のうちに山の象徴表現の多様性を探り、山がいかに「見立」の対象になってきたかを豊富な図像を用いながら実証しようとする。「創造にかかわる連想と飛躍の働き」としての「見立」の方法こそは、著者によれば、「日本民族の活性の素で、文芸・美術などの芸術の構造をはじめ、形造る働き、美学の基本を成す」。日本文化のいわゆる模倣性、非創造性なるものは、この「見立」のせいである。「本物それ自体では意味も趣向もない。……神は本ものは悦ばない。趣向という精神の働きに喜びがないからである。神を迎える祭の日には、人々は精一ぱいに趣向を『見立』て、造り物をして、あっと云わせる。神は、これを『風流』として受納するのである」。

驚くべきは、山が古代人の表象のなかで、なによりも動くものだったとの冒頭の指摘であろう。立ち上る山、湧出する山、聳える山、四季に衣更えする山、降る山、競う山、走る山、籠る山、鎮まる山、飛ぶ山……。「動かざること山の如し」どころではないのだ。

日光の強飯式の「山盛り」も死者の「一膳飯」も、死出の山の象徴にほかならない。料理の基本スタイルである「盛る」ことも、総じて山の見立である。「料理は、山を焦点とした食物の風流」なのだ。立花の根締めに用いる「剣山」なるものがある。剣の山といえば、死後の地獄の山だが、剣山になると、崑崙山あるいは神仙の山の見立になる。凶から吉へのこうした転換を「直す」というのだそうだ。「めでたい記号」へ直されたのである。「床の山」も同じである。もともと『日本書紀』や『万葉集』に見える近江の古代の山名だった鳥籠(とこ)の山が、恋の歌において床の山になる。吉原の三つ布団として花魁の部屋に移されたのだ。この三つ布団は三つ山の見立であり、三つ山とは、崑崙山が三層または三級より成るところから、この世ならざる極楽の世界の標識である。

何重もの見立。これこそが、日本的想像力の論理である。著者は、それを「風流」という。風流に遊ぶこと、これは端的に「遊山」といわれるわけだ。「遊山」とは、もともと山に入ること、仙境に遊ぶことの謂であり、現実離脱の超越性を帯びた業だった。山が晴れの日、晴れの場所、祭になくてはならぬ存在であるのも、当然の事態である。「山車(だし)」の登場である。

体系化を志向せぬままに次々と繰り出される斬新な指摘は、まさに日本的コスモロジーの可能性を予感させるのに十分である。該博な知識と、丹念なフィールドワークと、そしてなによりも詩的直感とによって、本書はまことに稀有な表象論たりえている。長らく舞踏・かぶき研究で斯界をリードしてきた著者は、前著『童子考』(一九八四)あたりから、その視野を日本的想像界とでも呼ぶべきものへと一挙に拡大したように思われる。いつしか人は『郡司学』という表現を用いるようになった。御本人は好まれないようだが、やはりそう呼ぶほかはない領域が開かれている。本書は、そのことのまぎれもない証左である。

【この書評が収録されている書籍】
イコノクリティック―審美渉猟 / 谷川 渥
イコノクリティック―審美渉猟
  • 著者:谷川 渥
  • 出版社:北宋社
  • 装丁:単行本(297ページ)
  • ISBN-10:489463032X
  • ISBN-13:978-4894630321
内容紹介:
美学と批評を架橋すること―絵画、彫刻、写真、映画、詩、小説など、多様な“美的表象”を渉猟する美学者の、アクチュアルな批評論集。美と知の地平を博捜するリヴレスク・バロック第二弾。フランス文学者・鹿島茂との“書痴”対談収録。

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風流の図像誌 / 郡司 正勝
風流の図像誌
  • 著者:郡司 正勝
  • 出版社:三省堂
  • 装丁:ハードカバー(255ページ)
  • ISBN-10:438534938X
  • ISBN-13:978-4385349381

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初出メディア

國文學(終刊)

國文學(終刊) 1993年11月臨時増刊号

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