現代人が忘れてしまった知恵
森や山、川などを人と見做(みな)し、鳥や草木が人に語りかけてくるという感覚を古代の日本人は持っていた。それは単なる擬人化にとどまらない自然観の現れであり、「森は考える」という本書の思想とよく通じ合う。著者はアマゾン河上流域に暮らす原住民に寄り添う調査活動をベースに、従来の人類学や哲学、生命科学、生態学の枠組みを創造的に逸脱する思考を組み立てている。我々が無意識に踏襲している「思考するのは人間だけ」という前提そのものを排し、植物、昆虫、動物が自然界で織りなす行動は、自他を区別したり、自己意識を持つといった「記号過程」を経ていると捉える。たとえば、捕食者の目を欺くナナフシの擬態、森で人と遭遇したジャガーがその人を襲うか素通りするかの判断、鳥のさえずりによるコミュニケーション、これ全て自己認識をともなった「思考」なのだという考えを受け容(い)れたとたん、「自然と人間」といった二元論や「人間中心主義」を軽やかに超えた知的展望が開けてくる。古典文学ではまだ人と自然の距離が近かった。風景描写とは自然との対話であり、自己認識と表裏一体だった。自然科学者と詩人の分業は曖昧(あいまい)で、繊細な自然観察者は植物や虫に共感したり、森に欺かれたり、動物に救われたりすることもできた。最高の人智(じんち)とは天命を知ることであり、自然の複雑さの中に神を見ることであった。そうした才能はシャーマンに授けられて来たのだが、その知は体系化されることなく、近代以降は忘れられてしまった。人類学者はその伝統の残滓(ざんし)の再発見に努めたが、森に暮らす狩人の生態報告にとどまり、彼らの思考法に則(のっと)って、自己を再認識するところまでは踏み込まなかった。人間が「人間的なるもの」を超えるためには、AIを頼る以外にも、狩猟採集時代のエデンの園たる森に回帰し、失われた思考を辿(たど)り直す方法もある。