書評
『ある明治人の記録 改版 - 会津人柴五郎の遺書』(中央公論新社)
会津を共に旅した本
旅に出たらボーッとしたい。列車の窓から景色を眺めていたい。だけれど家では読めない本もある。ゴールデンウィーク、『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』(石光真人/編 中公新書)を持って、会津の山の中をうろうろした。すでに名著として知られている。私も二十年前に図書館で読んだのだけれど、永らく再会できないでいた。町の本屋で見つけたときはちょっとワクワクした。
いくたびか筆とれども胸塞がり涙さき立ちて綴るにたえず、むなしく年を過ごして齢すでに八十路(やそじ)を越えたり。
柴五郎は明治初の政治小説『佳人之奇遇』の著者、東海散士こと柴四朗の弟だそうである。藩閥の外にあり、とりわけ差別された会津藩士としては例外的に陸軍大将にまで上った。北京駐在武官時代、北清事変における沈着な行動は列国の賞賛を浴びたという。その幼児期になめた辛酸を書き遺したのが本書である。
安政六(一八五九)年、会津若松に上士の子として生れた。十一人兄弟だったが「躾きびしく家内騒がしきことなかりき」、しかも温かい家だった。
慶応四(一八六八)年十月、かぞえ十歳のとき、会津若松城は官軍に攻められ落ちる。父兄は城中にあり、五郎だけが家を出され、祖母、母、姉妹すべて自刃して果てた。
男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪(そそ)ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱しめを受けざることを約しありしなり。
簡潔な一文のなかに、幕末の武家の家存続の決意と厳しい倫理が瞭然である。
維新後、三十二万石実質六十七万九千石あった会津藩は、下北半島の火山灰地へ移封された。名目三万石実質七千石の斗南(となみ)藩。草木も生えぬ地での開墾が始まる。
陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を吹き貫け、炉辺にありても氷点下十五度なり。炊きたる粥(かゆ)も石のごとく凍り、これをとかして啜(すす)る。衣服は凍死をまぬかれる程度なれば、幼き余は冬期間四十日ほど熱病に罹りたるも、褥なければ米俵にもぐりて苦しめらる。
粥といっても白米ではない。海岸に流れついた昆布や若布(わかめ)を干し、棒で叩き木屑のようにして炊く。「はなはだ不味なり」。水は川面の氷に穴を掘って汲む。家まで着く間に凍った。履き物はなく裸足で、凍傷にならないためにはつねに足踏みするか、全速で走るしかなかった。犬の死骸(しがい)が手に入れば、塩で煮て毎日食す。
余にとりては、これ副食物ならず、主食不足の補いなれば、無理して喰らえども、ついに咽喉につかえて通らず。
そのさまを見て父は一喝する。
武士の子たることを忘れしか。会津の武士ども餓死して果てたると、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ。
柴五郎の筆は淡々としてそれゆえに壮絶である。まさしく挙藩流罪の極刑。いまも会津の人々と交際するとき戊辰(ぼしん)以来の恨みが数代を経て凝るのを知る。当り前だと思った。
勉学したくとも書籍はなく、もっぱら縄をなって暮した五郎が、十三歳のとき青森県給仕から上京して陸軍幼年学校に入るまでが記録される。薩長にあらざれば人にあらず、の世のすきまにどうにかもぐり込もうと汲々とする人々。その中で「義侠無私の人」野田豁通(ひろみち)、「心優しき人」長岡重弘に出会い、五郎の運は拓(ひら)けた。
ほほえましいエピソードもある。二年ぶりに白いご飯を食べたとき、「美味なるに驚く」。ふっくらした敷・掛布団に寝れば「踏むに躊躇せるほどなり」。この無邪気な、少年の幸福感。初めて石油洋燈(ランプ)を見たこと、ビールを飲まされたときの「にがくして薬のごとく不味(まず)し」なども明治初期の生活史として興味深い。
「お芋とお萩にしてやられた」と自嘲する江戸っ子の末裔である私は、西南戦争時、日記に「芋征伐仰せ出されたりと聞く。めでたし、めでたし」と書かずにおれなかった少年に、たわいなく共感してしまう。
それはどうでもよい。心打たれるのは、柴五郎がいかなる時も誇りを捨てず、礼節を重んじたことである。青森を出るとき、東京までの条件で山高帽を貸してくれた人があった。少年には耳まで入るほど大きなそれを、彼はのちに礼して返却している。上京して世話になった会津藩の上士、山川大蔵(のちの浩)の家が困窮していると、彼は餞別に貰った虎の子十三円五十銭をいさぎよく差し出した。
戦後民主主義で育った私が親として忘れがちなことだが、礼節、矜持、謙虚、この本を貫く人倫の道を、わが子らにも伝えたい、と思う。薄緑に煙る会津の山々に、私は柴五郎の風格ある面影を重ねて飽きなかった。
【この書評が収録されている書籍】
本の窓 1993年~1996年
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