外国人排除、侵略正当化の道具に
鬼は日本を見る鏡のようなものである。鬼という字は中国由来だ。元来、中国では鬼は死者の霊であり、死ねば皆、鬼となる思想がある。孔子は祖霊の鬼だけを祀り、鬼に深入りせぬよう教えた。非業の死を遂げ、供養されぬ者の霊は悪鬼となり、病気をもたらす疫鬼(えきき)になると考えた。これは日本にも入ってきた。また古代中国の『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』では、鬼をやっつけるアイテムは桃とされ、これも日本神話でイザナギ命(ノミコト)が桃で鬼を追い払ったり、桃から生まれた桃太郎が鬼退治をしたりする源流になっている。卑弥呼は『魏志倭人伝』で「鬼道を行い、よく人々を眩惑した」と記されている。著者は卑弥呼の鬼道を「死霊の言葉を語る巫術(ふじゅつ)のようなもの」とみる。古代中国でも、鬼の姿は無形や獣、一つ目と多様だった。十二世紀末になると、日本の鬼も姿が統一されてくる。裸身でザンバラ髪で、裂けた口と角がある。赤鬼・青鬼が宝棒(ほうぼう)をもつあの姿である。これは密教が持ち込んだインド由来の鬼の姿だという。ちなみに、鬼は槌(ハンマー)を持つが、あれは一尺(約30センチ)もある鑿(のみ)とセットで、人間の額に鑿を打ち込んで殺すための凶器だと、本書で知った。
こうして日本は唐(から)・天竺から鬼を輸入したが、島国だから外界からくる異人や敵を鬼とする意識が育った、というか、育ってしまった。本書の価値は、ここに着目し、近現代までの初の「鬼の通史の新書」を仕上げた点にある。国文学や民俗学の鬼研究は古代・中世の鬼の語りに終始しがちであった。しかし、この国は日清戦争で鬼退治になぞらえて清国に出兵し、凱旋兵士に吉備団子(きびだんご)がよく売れた歴史をもっている。本書によれば、日露戦争時も露西鬼(ロスキー)という人食い鬼を征伐する『日露ぽんち 桃太郎のロスキー征伐』という絵本が出たという。第二次世界大戦では米英兵を「鬼畜」と呼んだ。玉井清氏の研究によれば、政府の広報グラフ誌『写真週報』では、開戦から半年近くたった昭和十七(1942)年後半から「鬼」と表現する傾向が強まったという。
中国では鬼は基本的に冥界の住人だが、日本では鬼が現世にいて身近に現れる。平安時代の歴史書には、鬼出現の記述が頻出している。本書では『日本書紀』が既に北方にすむ粛慎人(みしはせひと)を鬼とみなしているとし、鎌倉時代の関白・藤原(九条)兼実(かねざね)が日記に、伊豆の島に来た南方の漂流民を鬼と報告した事実などが丁寧に紹介されていく。また、女性差別や偏見の観点から「おにばばあ」はあっても、「おにじじい」という表現はまずないのを指摘し、女性の嫉妬心と鬼が結び付けられていく歴史的過程も追っている。
新型コロナウイルス感染症も、昔であれば鬼の仕業にされたであろう。日本において鬼が、病気や障がい、よそ者への差別や排除・侵略を正当化する道具立てとされてきた事実を著者は鋭く指摘する。日本社会は異質なものに不安を覚えやすい。異質を鬼とみなし、心の整理をつけてきたのかもしれない。巻末には人気漫画『鬼滅の刃』への言及もあり、「長い歴史を持つ鬼の観念を大きく変えた作品」だという。二十年たてば、年間の来日外国人数は日本の人口にせまる可能性もある。外国人を鬼とみなしてきた島国だが、いつまでも、とまどってばかりもいられない。