後書き

『ロリータ』(新潮社)

  • 2017/08/22
ロリータ / ウラジーミル・ナボコフ
ロリータ
  • 著者:ウラジーミル・ナボコフ
  • 翻訳:若島 正
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(462ページ)
  • ISBN-10:4105056050
  • ISBN-13:978-4105056056
内容紹介:
ヨーロッパの教養豊かに育ったハンバート・ハンバートは、幼い頃の最初の恋で心に傷を負っていた。理想のニンフェットを求めながらも、パリで結婚するが失敗。離婚を機にフランス語教師として… もっと読む
ヨーロッパの教養豊かに育ったハンバート・ハンバートは、幼い頃の最初の恋で心に傷を負っていた。理想のニンフェットを求めながらも、パリで結婚するが失敗。離婚を機にフランス語教師としてアメリカに渡った彼の下宿先には、一人の少女がいた。ロリータ。運命のいたずらから、ロリータと二人きりとなったハンバートは、彼女とともに車で全米を転々とすることになる-彼らを追跡する、謎の男が登場するまでは。少女愛というタブーに踏み込んだがためにスキャンダラスな問題作として広く知られる一方、本書が幾多の「謎」を重層的に含み込む、精緻極まるパズルのような名品であることは意外と知られていない。その緻密な「謎」ゆえに、今もなお世界中の読み巧者たちを引きつけてやまない文学の逸品、「言葉の魔術師」ナボコフの最高傑作が、発表50年を経て待望の新訳。

初版から現在に至るまでの五〇年間のあいだ、『ロリータ』はつねにナボコフを語るときの中心的作品でありつづけてきた。ナボコフ自身も、自分が『ロリータ』の作者として後世に記憶されるだろうと述べている。それはなにも、スキャンダラスなベストセラーになったからという自嘲的な意味合いではけっしてなく、『ロリータ』こそが自分の代表作だという誇りからの発言である。『ロリータ』についての話題は途切れることがなく、スタンリー・キューブリックとエイドリアン・ラインによる二度の映画化もさまざまな意味で話題になったのは、『ロリータ』が今なお世間を騒がす出来事になりうることを証明している。

五〇年のあいだに、ポルノ小説まがいのベストセラーから、二〇世紀文学を代表する芸術的小説作品へと、『ロリータ』の受容および評価も大きく変わった。近年では、『ロリータ』には実はあまり知られていない元ネタになった小説があり、扇情的なその通俗小説を読んだナボコフが内容を拝借して作り替えたのだという、剽窃説が発表されてちょっとした騒ぎになったが、ナボコフ研究者のあいだではその説に対する評価はおおむね否定的である。

『ロリータ』は、ナボコフにとって一世一代の思い切った賭けであり、ナボコフが持っている力をすべてそこに注ぎ込んだ作品である。あとがきでナボコフは、「アメリカを発明する」という意図があったことを述べているが、これはけっして単なる大言壮語ではない。まさしくその言葉どおりに、ナボコフはいわば夢のアメリカをここで描ききったのだとわたしは思う。そのようなとんでもないくわだてを、ここまで実現したアメリカ作家がいただろうか。そうして組み立てられた壮大なパノラマだけではなく、ナボコフ独特の細部の書き込みに至るまで、この小説が持つ幅と奥行きには驚くべきものがある。物語の筋書きを追って楽しむ読者にも、顕微鏡で見るように細部を点検して楽しむ読者にも、『ロリータ』が提供してくれる喜びはかぎりがない。この五〇年のあいだに、さまざまな形で『ロリータ』は語られ論じられてきたが、それでもまだ『ロリータ』は読まれ尽くし語られ尽くしたというわけではない。いやむしろ、『ロリータ』の真価が問われるのはいよいよこれからではないかという気さえする。

謎解きを楽しむタイプの読者のために、小説の細部が大きな問題へと発展する可能性を秘めた、一つの例を挙げてみよう。現在、ナボコフ研究者の頭を悩ませ、意見が大きく二つに分かれている問題は、『ロリータ』の中に出てくる数字をめぐる矛盾についてである(ここから、小説の細部について踏み込んだ話を少しするので、そのような議論をいわゆるネタバレだと思われる読者はお読みにならないでいただきたい)。『ロリータ』の結末で、語り手のハンバート・ハンバートは、この手記を刑務所で書きはじめたのは五六日前だと記している。そして本書の偽の序文として付けられた、ジョン・レイ・ジュニア博士による記述では、ハンバートは一九五二年一一月一六日に死亡したことになっている。結末を書き終わった直後にハンバートが死亡したと仮定すると、一九五二年一一月一六日から五六日を逆算すれば、ハンバートの逮捕はいくら遅くても一九五二年九月二二日になる。ところが九月二二日というその日付は、今は人妻となったロリータから手紙が届く日に当たり、第二部第二八章から結末に至るハンバートの行動の記述を点検すれば、この物語の最後でハンバートが逮捕されるのは九月二五日であることがわかる。すなわち、三日のずれがあるのだ。

わずか三日の誤差。この矛盾は、指摘された当初はそれほど大問題になるとは思われなかったようで、それをハンバートの記憶の暖味さに帰因するとした研究者もいた。しかし、事はそれほど簡単ではない。本書のあちこちに出てくる日付を子細に検討すれば、数字に対するハンバートのこだわりがごくわずかの例外を除いて驚くほど正確であることがわかる。たとえば、ハンバートが書く「お尋ね者ドロレス・ヘイズ」という戯れ詩の中に、ロリータの年齢を「五三〇〇日」と書いている一行がある。そこで、ロリータが誕生した日付から、失踪する日付までを計算してみると、なんとぴったり五三〇〇日に符合する(読者は各自でご確認いただきたい)。

いま仮に、矛盾するように見える二つの日付がどちらも正しいとしてみよう。すると、そこから導かれる結論はーつしかない。ロリータの手紙が届いてから以降の出来事は、現実には起こらなかったことになるのだ! こうなると、ハンバートの手記のありようそのものが、突然不安定になってくる。『ロリータ』という小説そのものが、まるで揺らぐ蜃気楼のように見えてくるのである。

まさか、とお思いになる読者がほとんどだろう。しかし、ナボコフ研究者のあいだで俗に「修正派」と呼ばれるようになったこの異説を論破するのは容易ではない。さらに状況証拠もこの説をサポートする。ナボコフはロシア語訳および英語版の決定稿を作る際に、従来存在した誤りなどを入念にチェックしたが、この数字ニつについては訂正しなかった。むしろ、一九五二年九月二二日という日付を強調する方向で修正したことがわかっている。つまり、結末がフィクションであることを、ナボコフ自身がこの日付に仕組んだ可能性があるわけだ。この修正派に対して、真っ向から異議を唱えている旗頭が、評伝『ナボコフ伝』の著者であり超一流のナボコフ研究者の一人であるブライアン・ボイドだ。ボイドは、この数字の矛盾をナボコフ本人の見落としだと断定する。要するに、『ロリータ』の読み方を従来どおりのものに戻すためには、たった一箇所だけ、ハンバートが死亡した日付の「一六」日を「一九」日に訂正すれば済むことだと。

ナボコフ伝 ロシア時代 / ブライアン・ボイド
ナボコフ伝 ロシア時代
  • 著者:ブライアン・ボイド
  • 翻訳:諫早 勇一
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(360ページ)
  • 発売日:2003-11-21
  • ISBN-10:4622070715
  • ISBN-13:978-4622070719
内容紹介:
帝政ロシアの貴族時代から革命に余儀なくされたヨーロッパへの「亡命」生活へ。偉大な政治家でもあった父の死、大きな転機となった結婚を経て「作家」ナボコフが誕生するまで。激動の生涯。

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議論のおもしろさという点からすれば、まるで探偵小説読者のように小さな手がかりを集めて意外な真相を組み立てるといった趣がある、修正派の議論のほうがおもしろいことはたしかなのだが、なにしろそこから生まれる問題があまりにも大きすぎるために、現時点ではまだ決定的な解明は出ていない。ごく簡単に、修正派をめぐる話をご紹介してみたが、『ロリータ』について語るべきことはまだまだ無尽蔵にある。今確実にわかっているのは、『ロリータ』が何度も再読すべき小説であり、そしてまた、その再読のたびに発見の喜びを与えてくれる小説だということだけだ。

(次ページに続く)
ロリータ / ウラジーミル・ナボコフ
ロリータ
  • 著者:ウラジーミル・ナボコフ
  • 翻訳:若島 正
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(462ページ)
  • ISBN-10:4105056050
  • ISBN-13:978-4105056056
内容紹介:
ヨーロッパの教養豊かに育ったハンバート・ハンバートは、幼い頃の最初の恋で心に傷を負っていた。理想のニンフェットを求めながらも、パリで結婚するが失敗。離婚を機にフランス語教師として… もっと読む
ヨーロッパの教養豊かに育ったハンバート・ハンバートは、幼い頃の最初の恋で心に傷を負っていた。理想のニンフェットを求めながらも、パリで結婚するが失敗。離婚を機にフランス語教師としてアメリカに渡った彼の下宿先には、一人の少女がいた。ロリータ。運命のいたずらから、ロリータと二人きりとなったハンバートは、彼女とともに車で全米を転々とすることになる-彼らを追跡する、謎の男が登場するまでは。少女愛というタブーに踏み込んだがためにスキャンダラスな問題作として広く知られる一方、本書が幾多の「謎」を重層的に含み込む、精緻極まるパズルのような名品であることは意外と知られていない。その緻密な「謎」ゆえに、今もなお世界中の読み巧者たちを引きつけてやまない文学の逸品、「言葉の魔術師」ナボコフの最高傑作が、発表50年を経て待望の新訳。

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