井上 ひさしHISASHI INOUE
公式サイト: http://www.inouehisashi.jp/
1934年11月16日、山形県東置賜郡小松町(現・川西町)に、父修吉、母マスの次男として生まれる。本名は廈。五歳のときに父が病没。亡父の蔵書を読みながら育つ。特に坪内逍遥訳の「シェークスピヤ全集」と「近代劇全集」を愛読。仙台第一高校時代には、映画と野球に熱中した。受洗。1953年、上智大学文学部ドイツ文学科入…もっと読む
中公文庫版の「あとがき」に米原万里はこう書いている。〈本書におさめられた文章は、二十世紀末から二十一世紀初頭にかけて、いくつかのメディアに…
小説家としては別の物差しが必要になるが、エッセイストとしての米原万里は、彼女の読者ならよくご存知のように、七つの武器を駆使した。それらを列…
「日々の暮しが少しでもよくなるために、一人ひとりがどのように生きたらよいか」米原万里が両親から引き継いだ人生の課題は、これであった。病いの…
通訳時代もエッセイストのころも、そして小説家になってからも、米原万里の強力な武器の一つが小咄(こばなし)だった。彼女のいう小咄とは、〈笑い…
山陰地方の山林地主の家に生まれた米原昶(いたる)は、自分の信じた思想を誠実に実践してその生涯をまっとうした。生家をすて、学問をあきらめ、戦…
米原万里が鬼籍に入ってから編まれたエッセイ集である。大好評を博した『ヒトのオスは飼わないの?』の続編と、家族について書かれた文章が収められ…
米原万里の行くところにきまって笑いが興(おこ)った。彼女の生涯の座右銘は「振(ぶ)らないこと」。いい子振らずにいつも卒直に、正直にふるまっ…
米原万里の早食(はやぐ)いは、通訳業界でも評判であった。ロシアの要人と日本のお偉方との間で通訳を行なう。そこへ食事が運ばれてくる。ウォトカ…
この作品によって、米原万里は名エッセイストから本格的な小説家へと歩みだした。「おもしろい」「感動した」という賛辞の嵐のなかで、実験的な小説…
多感な少女時代をヨーロッパの古都で小さな外国人としてすごし、やがて母語と外国語の交換現場に第一級の通訳として立ち合うことになった米原万里は…
一九八四年から翌年にかけての二ヶ月間、米原万里はTBS取材班通訳としてシベリア大陸を旅した。そのときのことはすでに処女作『マイナス50℃の世界』…
どんなネコ嫌いイヌ嫌いでも、ここに描かれているイヌ二、ネコ四、ヒト二によって構成された聖家族の日々を読んだあとは、大のネコ好きイヌ好きにな…
「電光石火の早業だった。万里さんはあっという間に翻訳してしまったんです。万里さんが、念のためにロシア人にも見てもらってちょうだいとおっしゃ…
すぐれた書き手のもとには、ひとりでにすぐれた編集者たちが集まる。これが文筆業界の基本則の一つである。米原万里も優秀な編集者に支えられて仕事…
米原万里は講演の名手でもあった。なによりも声がよく通ったし、発語は明瞭だった。常時一千はたくわえているという小咄を連射して客席を沸かし、ノ…
まことに残念なことだが、「見ても見えず聞いても聞こえず」というのが人間の常である。米原万里はこの壁を破ろうとして必死になっていた。〈現実に…
その全生涯にわたって米原万里は本を読み続け、そして信じられないほどたくさんの書評を書きつづけた。彼女の全書評を集めた本書の特徴の一つは、い…
どんな珍談も奇談も起こりうる同時通訳の現場を、米原万里は〈喜劇の現場〉と名付けた。奇妙なことに、その現場で、はたらいている彼女の仲間たちは…
小説すばる新人賞(第16回)受賞作=山本幸久「笑う招き猫」(「アカコとヒトミと」改題)/他の候補作=須郷哲「プラチナガーデン」、藪淳一「虹の…
日本ファンタジーノベル大賞(第15回)大賞=森見登美彦「太陽の塔/ピレネーの城」、優秀賞=渡辺球「象の棲む街」/他の候補作=彼岡淳「ラビット…